インターネット☆ダークツーリズム

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初期のインターネットは、現在の誰もが常時接続する「インフラ」としての姿とは全く異なっていました。それは、主に科学者や学術機関の間に張り巡らされた、極めて限定的な知的なネットワークでした。この環境において、「誰もが自由に発言できる」というインターネットが持つ根源的な平等原理は、参加者間の「学者コミュニティの信用」という強固な担保によって実現されていました。

この牧歌的な時代には、インターネットの急速な発展に対する大きな期待がありました。従来の市民社会(シチズン)をもじった「ネチズン」という言葉が生まれ、インターネットの発展に積極的に貢献しようとする人々が、新しい情報社会、新しい市民社会の担い手(アーキテクト)になるだろうという理想が掲げられていました。彼らは、デジタル空間における規範を作り、その理想を実現しようと努力する、希望に満ちた存在として語られていたのです。インターネットは、知性と良識によって統治される、自由な理想郷の姿を予感させていました。

しかし、インターネットが一部の知的コミュニティから、文字通り「誰もが常時接続する」巨大な大衆社会へと変貌を遂げたとき、事態は一変しました。かつて発言の質を保証していた「学者コミュニティの信用」という抑止力は、圧倒的なユーザー数の前で機能しなくなり、崩壊しました。この信用の喪失が招いたのが、現代社会の最も悲惨な状況の一つである「ポストトゥルース(脱真実)」です。真実や客観的な事実よりも、感情や個人的な信念、あるいは単なる主張が優先される状況です。これは、真実を追求するコストよりも、目先の利益のために「言ったもん勝ち」で勝利を得る方が容易になってしまった結果です。

現代社会の分断を加速させているのが、インターネットを支配するアルゴリズムです。ユーザーの行動履歴や嗜好に基づいて、「信じたいもの」を信じさせる情報だけを推薦するアルゴリズムの働きにより、人々は次第に狭いコミュニティ、つまり「界隈」の中に閉じこもるようになりました。これが、いわゆる「フィルターバブル」と呼ばれる現象です。このバブルの中では、外部の視点や異論が排除されるため、内部で形成された倫理観や正義感が絶対化され、極端に偏ったものになりがちです。そして、人々は自身の「界隈」の偏った倫理観からくる「正義」を唯一絶対のものとして受け止め、それを外部や異なる界隈に対して強く押し付け合うという、摩擦に満ちた状況が生まれています。

この分断された「界隈」と「界隈」の境目が脆くも壊れる瞬間こそ、倫理の激しいぶつかり合い、すなわち「炎上」として現れます。炎上は単なるノイズやトラブルとして片付けられがちですが、われわれは、それに対し別の視点を与えます。炎上とは、狭い界隈の内部に外部からの視線という「風穴」を開け、内輪で通用していた倫理観を強制的に外部に晒し、判断を委ねるという役割を担っています。つまり、アルゴリズムによって生まれたフィルターバブルを、皮肉にも同じくアルゴリズム的な拡散によって「破壊」するという、逆説的な機能が与えられているのです。そして、その激しい反応は、デジタル空間において「人が生きた証」、つまりコミュニティの存在とその倫理観を刻みつける生々しい記録でもあるとしています。

しかし、この炎上やバブル破壊のプロセスも、現状では怒りや憎しみといった負の感情だけを増幅し、連鎖させるという、本質的な問題を解決していません。アルゴリズムが、私たちの最も原始的な、そして最も破壊的な感情に訴えかけ続けているのです。この負の連鎖、すなわち怒りだけを増幅するアルゴリズムを超克する思想として、われわれは「森羅万象」を提示します。「森羅万象」とは、宇宙に存在する全ての物事や現象を指す言葉です。そしてそこから学び続けるという、究極的に開かれた態度を意味します。

争いを繰り返してしまうのは、もはや逃れられない「人類の業」なのかもしれません。しかし、憎しみの連鎖を断ち切るために、「森羅万象界隈」は、あらゆる対立や価値観を観察し、学びの糧とする新しいデジタル倫理を模索します。これはアルゴリズムの奴隷にならないために、初期のインターネットが持っていた科学者的「知的好奇心」を、別の側面から再定義することにほかなりません。トップダウン型の知性に限界があるのならば、ボトムアップ型のフィールドワークを実践します。ネチズンが破れたサイバーカスケードを、清濁併せのむ森羅万象が乗り越えるでしょう。

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